新山 清:Vintage Photographs 1948 – 1969

<畠山直哉によるセレクション>

新山 清:Vintage Photographs 1948 – 1969
<畠山直哉によるセレクション>

2023年7月5日(水)~8月5日(土) 16:00~22:00 ※会期延長
定休日:日・月・火
*1ドリンクオーダー制

スタジオ35分
東京都中野区上高田5-47-8


新山 清(1911-1969)は戦前から戦後にかけて活動した写真家です。
戦後まもなく提唱された主観主義写真という分野で知られている新山清ですが、本展示ではそれだけに限らず、新山が残した多様な作品の中から写真家・畠山直哉氏に作品のセレクトをお願いしました。
畠山氏に作品セレクトを依頼した理由はいくつかあるのですが、僕自身の最大の関心は彼の鋭い思考と眼差しでどのような作品が選ばれてゆき、それらが集合し展示したときにどのような写真性が立ち上がって来るのか? ということでした。
200点程のヴィンテージプリント( 作家による手焼きプリント)に畠山氏が1枚1枚向き合いながら、セレクトされた17 点の展示となります。
古いものでは75年前(1948)のプリントから、作家が亡くなる年(1969)にプリントされたものまで、ひとりの現代写真家の眼によって選ばれた新山清のプリントを味わいにいらしてください。

スタジオ 35 分 / 酒 航 太


私は以前からドイツのfotoform一派、なかでもピーター・キートマン(Peter Keetman 1916-2005)の仕事に強く惹かれておりました。写真術におけるフォルムという言葉の意味を、彼の仕事ほどシャープに、そして初々しく伝えてくれている例を、私は他にあまり知りません。私には「slow glass」という、彼の仕事を思い浮かべながら作りあげた写真のシリーズがあるのです。

2008年、そんな私のところに「新山清の世界 – パーレット時代 1937-1952」というハードカバーの写真集が、そしてその2年後には同じ判型の「新山清の世界vol.2 – ソルントン時代1947-1969」が届きました。差出人は新山洋一という、表題の写真家と苗字を同じくする方。ページを開いた私は、その作品の活発な印象に目を見張りました。カメラによって目の前の世界が次々に刷新されてゆく、あのわくわくする感じ。戦後ドイツの若い世代たちが持っていたのと同じような、フォルムに対する初々しい眼が、同時代の日本にも確かに存在していたのです。差出人の名前をもう一度確かめて、その新山洋一さんが、あのコスモスインターナショナルの社長さんだということをやっと思い出しました。私がいつもヨドバシカメラに買いに行くネガファイルやバインダーにくっついている、あの青い横顔シールのCOSMOSです。

ところで、東京のスケボー少年だった酒航太さんが、サンフランシスコのアート・インスティテュートでヘンリー・ウェッセル(Henry Wessel Jr. 1942-2018)から写真を学び、帰国後は制作を続けつつ、中野区の新井薬師駅近くで2014年から「スタジオ35分」(以前のDPE屋が写真現像処理の迅速さを謳う「35分」という看板文字が残っている!)という、バーが併設されたアートギャラリーを開いていることくらい面白い話は、世の中にあまりないと私は思っているのですが、その彼が戦後のいわゆる「サブジェクティヴ・フォトグラフィー」の作家たち、ことに新山清の仕事にいたく傾倒し、ご子息の洋一さんのところに足繁く通って彼と話し合いながら作品を選び、自身のギャラリーで「新山清展」をすでに2回も開催しているということも、拍手したいくらいに面白い話ではないかと思っています。私もこれまでに、2点の小さな新山清作品を「35分」でゲットいたしました。ひとつは遠くまで続く電信柱の列と小さな地面。もうひとつは大波が浜辺近くで捲れる瞬間を横から捉えたものです。

その酒さんから「こんどハタケヤマさんのセレクションで新山清展を開きませんか」と持ちかけられたのですから、こちらも固辞しようがありません。新山清はとても精力的に仕事をしていた写真家なので、興味深い作品がまだまだたくさん残っているとのことなのです。緊張しつつも嬉しさと共に、酒さん、新山洋一さんを交えて、当時の写真家自身の手によるたくさんのプリントを、目黒にあるコスモスインターナショナルのオフィスで、2度にわたってじかに拝見しました。

白い手袋をして新山清のプリントに触れている私の前には、1969年にナイフを持った通り魔によって目黒駅前で突然命を奪われてしまったお父様の無念と出来事の理不尽さを片時も忘れることのない新山洋一さんと、「数年で廃れるだろうと思っていたスケボーがオリンピック種目になるなんて思わなかった」と、昨今の人間知性の地殻変動を肌で敏感に感じ取る酒航太さんが微笑んでいます。そんなお二人が、新山清の仕事の意義をできるだけ多くの人と分かち合い、できるだけ多くの人に新山清の残したプリントと共に暮らしてもらいたいと心から願っているのです。その願いには、私も大いに共感を覚えます。大袈裟かもしれませんがそれはすなわち、私たちのこれからの人生と、人間知性一般に対する提案でもあるからです。

「はい見た、オッケー」的な態度で人の作品を見ている普段の鑑賞時とは、少し異なるマインドセットで、新山作品には接してもらいたいものだなーと思いながら、私は写真を選んでいました。そんな私の脳裡には同時に、カメラによって世界を発見することの驚きや興奮に忠実だった自分の二十代が、しみじみと蘇ってきたものです。「初心忘るべからず」の声が、新山清の写真からは聞こえてくるようでした。

セレクションに際しては、日本芸術写真史上における新山作品の位置や、fotoformのメンバーだったオットー・シュタイナート(Otto Steinert 1915-1978)が組織した、いわゆる「サブジェクティヴ・フォトグラフィー」との関係、といった歴史的および文献学的なパースペクティヴに基づく客観的価値判断は、ほとんどおこなわれておりません。というより私は、そのような話題をすっかり忘れたまま、新山清の写真を見つめていたのです。ああ「subjective=主観的」とはこういう意味だったかと、感得した次第です。

畠山直哉


新山清(1911-1969)

1911年愛媛県生まれ。東京電気専門学校卒業。1935年に理化学研究所に入社。戦後1958年には旭光学に入社し、東京サービスセンター所長に就任。1969年5月逝去。生涯を通し写真家として作品制作に打ち込み、アマチュア写真家への指導も熱心に行なった。